尾張の山車まつりへ [知多の山車館]−[常滑市坂井地区]

06-03-15更新

  知多の山車館〜常滑市坂井地区〜松尾車

常滑市の最南端に位置する坂井は,江戸時代には上野間(現知多郡美浜町)の出郷で、明治維新後に近隣の上野間などの村々と合併し小鈴谷町に属し、その後現在の常滑市坂井となりました.
この坂井地区の祭礼に1台の山車が曳き出されます.「松尾車」と名付けられた山車は上山で演じられる糸からくりの浄瑠璃人形が伝承されております.
また,知多半島でも大半が崩壊してしまった,若衆組織が今なお生き続け,祭りを運営しています.

坂井では宝暦5年(1755)に山車が曳き廻されていた記録があり、古くから山車祭りが行われていたようです.山車蔵には寛政5年(1793)に造られた山車の一部が残されています.
松尾車の建造時期は江戸末期と推定されますが詳細は不明です.彫刻は上野間の中野甚右衛門が関与しているとの事ですが詳細は不明です.
昭和35年の分解修理に際しその一部は二代目彫常が行っています.
山車彫刻
祭りの様子

水引幕
「白羅紗地に波に神亀の図」
平成16年新調

宝暦5年の記録について
神事録によると宝暦5年(1755)の津島社天王祭礼に絵とともに『車引き十人、天王宮祭礼のぼり5本、其の他笛吹二人、鼓打五人、太鼓五人・・・庄屋前より引き出し天王社前へ引渡し・・・』
とあります.宝暦5年は『乙川祭礼絵図』や寺本の『八幡宮祭礼式の図』が描かれた年であり、尾張藩に提出した資料の控えが残されていたのかもしれません.
神事録は坂井村の助役だった永田豊吉氏が古い記録をまとめたもの「坂井の歩みと祭り」より

天王社と松尾神社
前述の宝暦5年の記録では「天王宮祭礼」に山車が曳き出された事が記されています.
この天王社は東光寺の鎮守(境内社)で牛頭天王を祀っていました.慶長4年(1599)の棟札などから古くから鎮座していた社だったようで、明治の神仏分離まで東光寺が管理していました.
当時から坂井村の氏神は松尾神社でしたが、神社は坂井にはなく本郷である上野間の松尾神社に並立して祀られていました.
その後明治11年(1878)に天王社のある地に遷座しました.これが現在の松尾神社です.
この天王社は大正4年松尾神社に合祀されたため、現在の松尾神社の祭神は「大山咋命」、「木花咲耶姫」、「素盞鳴命」となっています.
坂井の山車は当初天王祭の山車だったものが氏神の遷座により松尾神社の例祭に曳き出されるようになったのでしょう.

サヤの奥に保存されている旧車の前山部分

天井板に「寛政五歳癸丑六月吉日新建立若者」
と記銘があります.
各部が彩色されており箱型の壇箱や、脇障子がなく四本柱が広い等、古式の知多型山車だったようです.
上山は,堂山の幅と同程度に大きく,そのため山車の印象も半田などの知多型とは随分異なって見えます.これは本郷である上野間と同じで,上山でからくりが演じられるためかと思われます.
梶棒は堂山の内部(柱の内側)を貫通しており,台輪の臍(ほぞ)の形状とともに,狭い道をも通れるような工夫かと思われます.梶棒を固定する締縄はありません.また台輪と置台輪は密着していない構造です.これらは上野間・越智嶋組の山車と同じです.
山車の高欄四隅で御幣を振るのは上山と呼ばれる初厄の若衆です.サヤから出たら降りる事は許されないそうです.
曳き廻し中は後幕は上げることはありません.古い伝統をそのまま今に伝える坂井です.

からくり「軍術誉白旗鬼一法眼舘之段」
浄瑠璃糸からくり人形芝居で演題は「軍術挙白旗 鬼一法眼の段」といい,源義経を主人公にした物語です.17名によって操られる人形は義経、皆鶴姫、広盛公の3体です.惜しくも三味線と浄瑠璃の語りは現在継承されずに,テープによって演じられます.
浄瑠璃は地元の医師である伊東桐斉(1807〜1879)の作で,人形も当地の大工斧次郎によるもので天保15年(1844)に作られました.
現在の人形は乙川の山田利圀氏による復元修復.

参考資料:「坂井の歩みと祭り」常滑市坂井区
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