[知多の山車館]−[萩] | |
阿久比町萩地区は町の東南部丘陵に位置します.大山祇(おおやまずみ)神社の祭礼には,「大山車(おおやまぐるま)」と呼ばれる山車が狭い山坂道を曳き廻されます.70数戸の地区住民が一体となって行なわれる祭りは,素朴で暖かみを感じる祭りでもあります. 祭りの見所は大山祇神社への坂上げ.そして坂下ろしでしょう. 萩の人々が『知多半島一,勇壮な祭り』と自負する坂下ろしは,まさに祭りのクライマックス. ・大山車の歴史 山車の創建はわかりませんが,現在南知多町大井の祭礼で曳かれている浜組の山車は,かつて萩で建造された旧「大山車」だったものです. この山車(旧車)が明治中期頃に大破したため,明治44年に大工岡戸峰次郎によって新たに建造されたのが現在の山車です. 翌明治45年に上山を江原新助に依頼しましたが,その際にこの旧車は,請負代金の一部として江原新助に引き取られたといいます. この江原新助に引き取られた山車は手を加えられ大正4年岩滑新田平井組へ売り渡しされ,更に大正9年下半田東組,大正13年には南知多町大井浜組へと転々としましたが,現在でも金箔・漆塗りの古式の特徴を残した貴重な山車として健在です. なお,旧車の部品のうち「持送り」だけは現在の大山車に流用されており,天保15年の墨書があることから,現大井浜組の山車が天保15年の建造だったことがわかります. また,特筆すべきなのは,寛文11年(1671)の記録には萩村の戸数27戸,住民207人であったといわれます.その後人口の増減はあったと思われますが,約500m四方の小さな村で山車を造り,維持するのは並大抵ではなかったと思われます. 前述のように,明治44年に胴山を建造した後も,上山、台輪と順次改修され,山車彫刻を加え現在の山車になったのは昭和25年のことでした. 現在では,時代の流れなのか,祭りの継承には非常に苦労をされているようです.先人から維持継承してきた山車と祭り.決して途絶えることなく次代に伝えて行きたいものです. 昭和57年大幕新調. |
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萩の家並みは丘陵地にあります. 大山祇神社から麓までは,民家が軒を連ね気を抜けない狭い坂道の連続です. 小振りな山車も,ここでは道幅一杯.道路事情から求められた山車の大きさであることが判ります. |
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上山には2本の御幣(幣束) 山元が2軒あるため山車に乗せられる御幣も左右2本載せられている. |
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2本の曳き綱は梶棒に巻かれています.梶棒に巻くのは手が滑るのを防止する役目も果たしています. また,曳き手は必ず綱の内側に入ります.これは狭い道が続くため,民家や塀に挟まれないためだそうです. |
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参考資料:阿久比町誌,半田市誌 阿久比の風土,あぐいのあゆみ他 |
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